そうそう、その頃親は定年後の優雅な生活に入っていました。
社交的な母が父を誘って陶芸を始めて大きなコミュニティを作りながら活動していました。
父の生まれ育った山奥の上は別荘として保存されていて、夏休みの避暑地として家族や友人などが利用していました。
両親が陶芸を習っていたのがそのわりと近くで、その土地でコミュニティができていました。
たまたま、その繋がりで一流所のトランペッターと両親が付き合いがあり、僕は直接繋がっていなかったのですが、あるきっかけからあるお店で共演することが続き、その頃はよく両親連れ添って聴きに来てくれました。
母は付き合いの幅が広かったので、その時の人脈を僕の活動のために動かしてくれました。自分主体のライヴをいくつも企画することができその時期はある意味やりがいのある活動ができたのでした。
母の癌が見つかり、僕自身もそれまで共演していたメンバーとうまくいかなかったこともあり、それからは呼ばれれば行く流れ作業のような演奏が続くのでした。
その後の活動の移り変わりについては別視点からの話で触れたいと思います。
ただ、ジャズをやり始めたときからジャズの世の中での立ち位置が変わり続け翻弄されていました。それは他のジャズプレイヤーにとっても同じでした。
誰でも知ってるジャズの曲というのが昔は何百曲とあったのが、気がつくと一曲もないという事態まで変化していました。枯葉を演奏してもお客さんが知らないという事態を多くのミュージシャンは受け入れるのに時間がかかっていました。
僕が習い始めた当初、ジャズの演奏は全てメモリーと即興だけで、ピアニストがイントロを始めれば曲目とキーを正確に判断してテーマまでに弾き始めるみたいなのがルールと思ったていました。
ボーカリストに譜面を催促すると、そのボーカリストの師匠から、譜面ないと弾けないのかと怒られたこともあります。
当初は兎に角たくさんの曲を覚え、全てのキーで弾けるようにしていました。
しかし、そのメモリーしていた千近くあったスタンダードのどれもお客様は知らない時代へと移り変わるのです。
頭を切り替える必要がありました。
僕は早くに、即興であることより工夫されたアレンジと正確な譜面の必要性を感じていました。そのへんの認識がミュージシャンの中でバラバラだったのです。それは今に至ってもバラバラのようです。
お客のニーズも2極化かしています。
若いときに聴いたあのままのアレンジの、オリジナルのあの演奏が聴きたい派か、今にあった選曲やアレンジで斬新なパフォーマンスを求める派か。
前者を求めるのはリアルタイムでジャズを知っておられる年配の方々ですが、残念ながらもはや出歩けるほど元気な方は希少なのです。
後者を選ぶしかないのです。
斬新さといってもk-popみたいにするわけではなく、それぞれの工夫があれば素材が新しくても古くてもいいのです。
ポップスくらい念入りに無駄のないアンサンブルを考え、部分的に即興性を混ぜ込む工夫を凝らすだけで面白くするアイデアは幾らでもあるのです。
僕のジャズシーン後半での演奏も2極化していました。創作的に面白いライヴをするものと、適当に昔っぽい演奏をするものとでした。昔っぽい方は残念ながら昔からかわらず寂れ続けるお店で、年配のお客様を相手に、年々減っていくギャラで希望もなく惰性で続けているだけでした。