ジャズ系のライヴハウスでも色々なことがありました。
駆け出しの頃はとにかくどこでも出演したかったのですが、まだ腕もなく始めはジャムセッションに行くことも勇気がいることてました。
一人で師匠についていたので横のつながりもなく、はじめは師匠のライヴで一曲だけ飛び入りさせてもらうということがたまにある感じでした。
運良くバイト先で知り合った駆け出しのピアニストが知り合いの店で演奏させてもらえるという機会に僕を誘ってくれました。
初めてのはこというありがたい機会でしたが、自身の思い上がりのせいで結果的にクビになりました。
次にチャンスをもらったのは、師匠と共通の知り合いがライヴハウスを立ち上げる話があり、ブッキングマネージャーの娘さんがジャズ・ピアノで頑張りたいから相手をしてほしいという話でした。
そこではジャムセッションのホストバンドも任され、毎週ジャムセッションで経験を積むいい機会になりました。
セッション仲間もたくさんでき、知名度も上げることができました。
しかし、お店の内部でのトラブルに巻き込まれたことでクビになりました。
その時は恨んだりもしましたが、そのお店は閉店までの間演奏の敷居を落とさない素晴らしいライヴハウスとして存在し続けたのでした。
次にはことして決まったのが、知り合いがオープンした小さなライヴハウスでした。
アットホームなお店でみなが家族みたいで始め居心地が良かったです。
そこでもセッションホストやライヴなどで出演して特に僕がホストを務めるセッションは人も集まり盛り上がりを見せていました。
しかしそこからは嫌なことが一つ2つと増えていきました。
わりと古い人脈のある方がやっていた関係で、昔は幅をきかせていたが行き場をなくした年配のミュージシャンのたまり場となっていました。
年功序列が厳しい世界だったようで、古カブが遊びに来たときにはそれだけでそこそこのお金を渡していたようです。
例えば僕がブッキングされていた日に古カブが来たら、僕の取り分から引いてその方たちに渡していました。
チャージバックも計算より少なく渡されることも増え、ダブルブッキングも毎回になっていました。ダブルブッキングはふたバンド分のお客を入れて店が儲かるように計算されていました。
お金がないというお客には店のチャージはしっかり取って、ミュージシャンのギャラに当てる分をサービスしたりしていました。
最終的に大喧嘩して二度と行くことはなくなりました。
その後は別の土地でのお店のセッションホストをオファーされ定期的に行くことが決まりました。
その土地での仲間が増え、その界隈での演奏も増えましたが、遠くて交通費がかなりかかったたので、お金の採算と体力の両方の理由で少しずつ行かなくなりました。
その後はまた違う土地でのはこの演奏に呼ばれるようになります。
まだ家からは何とか通いやすい距離でした。
そこでもかなり仲間が増え、活動範囲が広がりました。
出演していた他のミュージシャンの多くに気に入られ、出演最多となっていました。
ただ、ジャズの寂れていく世の中には抗えず、ギャラは少しずつ減らされしまいに交通費以下になり、ややこしいお客のうんちくをきき、雑用させられの始末でやめることになりました。
チップ制のお店では集まったチップの大半をネコババするお店もありました。
ネズミこうの勧誘をしてくるお店、ノーギャラでオファーしてくるお店から、クズのお店は多い世界でした。
それでも出演場所が欲しいミュージシャンは泣き寝入りしながら出演していました。
本当にこの世界が全部クズでした。
ミュージシャンとお店が契約書を交わしていないことがほとんどなので、泣き寝入りするか辞めるかしか無かったのです。
いいお店もあったのだから、みんな不正には目をつぶらないでほしかった。黙ってるやつらもみんなクズなんだと思います。
そういえば、お客のチップをネコババしたお店、ちょっと脅しをかけたらお金がもどってきましたよ。