兄が生まれた時は両親ができる限り面倒を見ていたそうです。
僕が生まれたタイミングでは、両親の職場の状況が大変だったりで、祖母に丸投げすることになったそうです。
なので、小さい間は祖父母の部屋にいた記憶があります。
ただ、父は祖父母の養子だったことなどもあり、ご飯を食べさせることだけが子育てと思っていたフシがありました。考えたら父も親から愛情を受けることもなく理不尽にせっかんされたり、そこそこひどい目にはあっていたようです。
僕に対して祖父母はそこまで理不尽な仕打ちをすることはなく、特に多趣味だった祖母のやっていた色々な習い事に首を突っ込んだりするのはそれなりに面白かった記憶はあります。
ただ、家族の中に、自分に対して何らかの興味を示す人間が一人もいなかった事が、当時寂しい気持ちで過ごすことになる原因となっていました。
小学校に上がるタイミングで母が結核で長く入院となり、そのころの僕はかなり情緒不安定でした。
小学校に上がるに際して予備知識などなく、ショックを受けたことが。
他の生徒みんなが各教科のノートをそろえて持ってきていた中、自分だけが自由帳一冊しか与えられていなかったこと。
自分だけがランドセルではなかったこと、自分だけ水着の色が違ったことなど、、
1,2年生の頃は教室の中が灰色に見えていた記憶しか残っていません。
家では常に兄と同じ部屋で、兄にはよく遊んでもらったりありがたくもあったのですが、少しでも自分一人だけでぼーっとできる時間があればその時間が一番幸せだったという記憶があります。
望むよりも余計に連れ回されることが辛かった。
3学年離れた兄とは力の差があり何も勝てず、つねにいじめの標的にもされました。
やんちゃだった兄は両親に抑えつけられ、ぶつけるところがなく僕に八つ当たりして、祖母がかばうと余計に腹が立ち僕に強く当たるという構図ができていました。
自分には親にも兄にも逆らう力も気力もなく、ぶつけるものも何もなかった。ただ一瞬でも1人だけの時間ができたら落ち着けた。
だれにも言わず1人で色々なことを考えていたように思います。
だけとも自身の心を共有する事がなかったためか、自分自身のパーソナリティを理解していた人間は一人もいなかった。親も兄弟も教師も何も言わせようとも知ろうともしなかった。勝手にこんな人間だみたいなテンプレートを作ってそれが真実と思い込む人たちだった。
小学校も学年が上がっても担任とも合わず、毎日が地獄だった。
家出と自殺は常に考えながらの毎日でした。
校舎の三階から飛び降りようとしたことがあり、教員の中では多分問題になっていたようでした。
誰にも迷惑や嫌がらせもしていないのに、執拗に嫌がらせをされ続け嫌になっていた時でした。
家族が頼りになると思っていなかったし相談するという発想すらなかった。
飛び降りかけた時に一瞬浮かんだのは祖母の顔だけでした。そう、僕が困ったとき、悲しいときに悲しんてくれたという記憶があったのは祖母だけだったのです。
思いとどまった理由は2つでした。
一つは祖母の顔が浮かんだこと。
もう一つは、クラスメートの一人に死んてくれたら嬉しいと言われた事でした。
こんなやつが生き残り自分が死ぬということのあまりに不条理なことがショック過ぎた。
その出来事は家庭の中で話題に上がることすらなかったです。
そう、小学校時代の苦痛は何だったか。
物理的に一人だったら幸せだったのかもしれません。
周りに心のない人間の形をしたものがたくさんくっついていたことが、苦しみを増していたのでしょう。
大人になってずっと後悔していることは逃げ出さなかったこと。自分自身の心を守れる環境を自分自身で作れなかったこと。飼いならされそれすらできなかったことでした。
遅刻も欠席もせずよく通い続けたと思います。そのことについても思うことがありますが次回に続けたいと思います。